南三陸町の心が映る美しい祈りの形「きりこ」

  南三陸町の家々の神棚は、正月になると真っ白な紙に縁起物が切り透かされた美しい「お飾り」で華やかになった。大津波で失われた多くの家にも、「きりこ」と呼ばれる切り紙やご幣束が飾られていた。
鯛や巾着やお神酒などを切り透かした紙は、神社毎に絵柄も違う。どの神社の「きりこ」も生き生きとして、命ある万物とともに在る祝福の心があふれる造形美である。たった一枚の白い紙が、神棚を美しく華やかな祝福の空間に変える。「きりこ」は、南三陸の人々の精神文化をよく物語っている。
  2010年に町内に住む若い女性たちが、志津川駅~駅前通り~五日町~十日町の家々を訪ね、それぞれの家の宝物や思い出を短く取材した。そのエピソードを「きりこ」の様式を真似て、家々の前に飾った。650枚の切り紙が町並みを飾り、さまざまな町の物語が紡ぎ出された。
  来年は歌津地区や入谷地区にも飾ろう。2月に140人ものの方々が集まった報告会を終えて、意欲は高まった。新年度の打ち合わせを始めてまもなく、ひとつひとつの物語がつまった町並みが失われた。
  このプロジェクトの中心となったボランティアの団体が、多くの協力者の支援のもと、きりこプロジェクトを再び町内で展開した。2つの仮設商店街に計230枚の「きりこ」を飾り、61枚をアルミ複合板に切り透かして家々が流失したあとの28ヵ所に設置した。かつて取材した家々の何軒かに設置するにあたり、困難な状況に直面しながらも、それぞれの方々が懸命に生きている姿を短い文で表し、絵柄とともに海に向けて設置した。空からも海からも、町のみなさんががんばっている姿が見えるように、との思いだった。「家が建つよりうれしい」と、何十年も生きてきた土地に白い「きりこ」が飾られた様子を見て語った方もいるという。
  町並みが失われたこそ、語り継ぎ、子供たちに見せていかねばならないことがある。大自然に人は生かされているという謙虚な気持ちを決して忘れてはならないと語り継ごう。この町で津波や大火の度に立ち上がってきた強くたくましい先人たちがいたという誇りを伝えよう。そして、力を合わせ幸せに暮らせる町をみんなで再建する人々がここにいるということを見せていこう。
  白く清らかな「きりこ」という美しい祈りの形に、南三陸の人々の思いが映り込む冬である。

きりこボード

きりこプロジェクト

南三陸町内に住む約20人の女性たち彩(いろどり)プロジェクトとアートによるまちづくり団体ENVISI(エンビジ)が協働して始まったプロジェクト。お店や旧家など、それぞれの物語が「きりこ」と解説により展示された。その中には、先代や先々代が、チリ地震津波から復興したエピソードなどもあった。2012年、人々の暮らしがあった場所に、「きりこボード」を海に向けて設置した。「そう、ここにお菓子屋さんがあった。」ついこの間まであった町を「きりこ」が思い出させるという。

いいものを作るその心意気を若い漁師たちに伝えたい

遠藤 勝彦さん

宮城県漁業組合志津川支所 かき養殖部会長

遠藤勝彦さん

  11月上旬の早朝、落成式が行われたばかりの真新しいカキ処理場では、老いも若きも男も女も、みんなが一心にカキの殻をはずしていた。通常、養殖かきは抱卵の後に身入りの時期を迎えるが、今年の夏は高水温の状態が長く続いたためかきの抱卵期間も長く、収穫期に入っても身の成長が不十分であった。しかし、作業に向かう人々の顔は、生き生きと明るかった。
  かき養殖部会の部会長を務める遠藤勝彦さんは、志津川地区で海産物商を営んでいた。震災当日は、漁協の会議で気仙沼市にいた。戻ってみると、何もかもがなくなっていた。かろうじて家族が無事だったのが、せめてもの救いだった。
  町民の多くがまだ避難所暮らしだった6月、海に近い避難所にいた漁師たちが集まり、宮城県内のどこよりも早くカキの養殖の再開に着手した。無事だった種ガキをかき集め、作業をスタートさせた。震災直後から、あちこちに流れ着いた浮き樽や浮き玉などをコツコツ回収していた漁師もいた。「とにかく、今、やれることから始めよう。」みんなの意気込みがひとつになった。作業をしているうちに、仲間の顔には笑顔がいつのまにか戻っていた。時には笑い声も聞こえるようになった。
  しかし、圧倒的な資材不足という現実が目の前に立ちはだかった。特に、カキの養殖で使うロープ類は、強度や材質などを慎重に吟味する必要があるため、手元に届くまでかなりの時間がかかった。多くの問題をみんなの力で、ひとつひとつ乗り越えた。カキの生長は早く、10月には収穫が可能になった。
  「次は、処理場だ。処理場さえできれば、たくさんの出荷ができる。」漁協では、国や県そして公益財団法人ヤマト福祉財団の助成を受け、仮設のカキ処理場をこの秋に完成させた。震災前に志津川地区と戸倉地区にあったカキ処理場を集約したため、100人を超える人たちが集まり、作業場には活気があふれている。
  震災後、遠藤さんたちは仲間たちと確かめ合ったことがある。それは「無理をせず、良いものを作ることこそ大切だ」ということだ。震災前には、生産量を増やすため、競うように養殖筏を設置した。それがかきの成長を妨げていた。
  現在の生産量はまだ震災以前には満たないが、それでも、南三陸のカキ復活を多くの方々が自分のことのように喜んでくれた。「しっかりといいものを作ることで、消費者に喜んでもらえる一流のカキをつくろう。いいものを作る心意気を次世代に伝えたい。」そんな気持ちが湧いてくる。
  南三陸の漁業を次の世代に良い状態でバトンタッチしたい。漁場の整備や販路の確立など、やらなければならないことはまだまだある。
  ここまでがんばって来られた喜びをみんなで確かめ合いながら、遠藤さんたちは次の一歩を踏みしめる。

新しいカキ処理場

当たり前の味噌がくれた「生き抜く力」

山内 育子さん

石泉ふれあい味噌工房 代表

山内育子さん

▲石泉ふれあい味噌工房にて。右小野つい子さん 中央 山内育子さん 左千葉悦子さん

  昔から、歌津地区では、自分の家で樽一杯の味噌を仕込み、それぞれの家庭の味を大切に守り伝えてきた。大きな鍋で大量の大豆を煮て、冷ましながら塩と麹を混ぜ合わせ、樽に詰めて冷暗所に保管する。塩・麹の分量などの違いによって、出来栄えが違ってくる。「手造りの味噌を一度食べると、既製品の味では満足できなくなりますよ」と、石泉ふれあい味噌工房のメンバー、小野つい子さんと千葉悦子さんは笑顔で話してくれた。
  石泉ふれあい味噌工房は、餅のつき方などを目上の人から学ぼうと主婦が集まり始まった。地域に伝わる生活の知恵を分かち合いながら、ゆるやかな交流を続けてきた。「震災直後、避難所に自宅で造った味噌を持ち寄り、味噌汁を作りました。その味に食べた人たちが、皆ほっと安心した顔になったんです。心に残りました。」代表の山内さんは、その時、歌津の味噌造りを守り継ぐ大切さを改めて感じたという。農協にあった味噌作りのための樽や機械は、津波に飲み込まれ瓦礫に埋まっていた。
  ところが、炊き出しで石泉を訪れた社団法人アジア協会アジア友の会のボランティアが、彼女たちが作る味噌のおいしさに出会い、「石泉ふれあい味噌工房」を再建する活動が、昨夏、本格的に始まった。そして4月、協会の支援により建てられたプレハブで、6名のメンバーが中心となり食品製造が始まった。
  得意の漬物やカボチャまんじゅう、焼き肉のタレなどを開発・製造し、南三陸直売所「みなさん館」で販売を始めた。地元の人のみならず、観光客にも好評だ。春に仕込み、10か月寝かせた看板商品の味噌は、1月頃の販売開始を見込んでいる。特に、震災で家を失った町の人たちは手造りの味噌を待ち焦がれており、毎日のように問い合わせが来る。
  「以前は、当たり前の味噌でした。でも、それは「生き抜く力」になりました。何でもスイッチひとつで済む便利な現代だからこそ、いざという時に、火を熾こすというような知恵が、命に関わることになると身をもって知りました。だから、豊富な知恵を持つおじいさんやおばあさんから学ぶことが、今こそ大切だと思うんです。」山内さんの言葉に、工房にいた全員がうなずいた。

石泉ふれあい味噌工房 商品

▲おかあさんたちが腕によりをかけた手作りの商品たち。

南三陸で再び味噌を仕込む日が来ることを信じて

高橋 長泰さん

有限会社 高長醸造元 代表取締役

高橋長泰さん

  高橋長泰さんは、志津川地区で大正7年から味噌・醤油の醸造を行う老舗、高長醸造元の3代目である。
  「味噌や醤油を造ることが当たり前だと思っていました。」と高橋さんは語る。東日本大震災はそんな当たり前の日々を一変させた。幸い身内は助かったものの、津波で自宅兼店舗は流出した。避難所生活を送りながら、自治会の役員として地域の方々の世話役にも忙しく、店の再開を考える余裕もない毎日だった。
  震災から1カ月あまりが過ぎた4月21日、自衛隊が設営した簡易入浴施設から帰る途中だった。送迎バスの窓から、五日町に残った銀行の残骸をみると、その屋上に緑のタンクが乗っていた。はっと思った。目を凝らしてみると、そのタンクには「9」と数字が書かれていた。間違いない。それは、店で仕込みに使っていた12個のタンクに自ら書いた数字だった。味噌を仕込んだタンクが一個だけ、奇跡的にほぼ無傷で残っていたのだ。
  「もう一度このタンクで味噌を造ろう。」高橋さんはそう決心した。「12個のうち9のタンクが助かったということにも、何か不思議な縁を感じました。創業者である祖父の名前が長九郎でしたから。」
  すべてを失った時にたったひとつ残されたのは、創業者の名前の一字、九の時が入ったタンクだった。震災前には店を続けるか悩んだこともあった高橋さんだったが、このとき迷いがなくなったことは言うまでもない。
  現在、高橋さんは美里町にある親戚の醸造元で働く傍ら、その一角を借りて高長醸造元の無添加味噌を造っている。各地で開かれる復興イベントや、インターネットで販売され、県外からも注文が来るようになった。
  「震災から1年以上が経過してもまだまだ問題は山積みで、何から手を付けていいのかわからないという人も多いと思います。自分もそうですが、今はただ仕事を通して、地道に一歩ずつ前に進んでいくしかないと思っています。」
  南三陸の地で、再び味噌を仕込める日がいつか来ると信じて、高橋さんは高長の味を守り続けている。

救出されたNo9のタンク

▲救出されたno9のタンク(写真提供:高長醸造元)

ボランティアの方々との出会いが教えてくれた歌津の海の素晴らしさ

高橋 直哉さん

金比羅丸 漁師

高橋直哉さん

  高橋直哉さんは、32歳。20歳から父親と歌津地区泊浜でホタテやカキ、ワカメの養殖を営んできた。高橋家の船の名前は『金比羅丸』。海上交通の守り神を祀った香川県の金比羅宮へ、曾祖父が遠路はるばる参拝したことからこの名前がついた。作業小屋の近くには金比羅宮の祭神の名前が刻まれた石碑が建てられ、代々の仕事を見守っていた。「漁師を継ぐのは自然なことだった」という。
  あの日、伯浜を飲み込んだ津波は、養殖施設のすべてを破壊し尽くした。何もかも失われた浜に、奇跡的に「金比羅丸」が残った。それは再興への唯一の希望だった。
  しかし、できることは、警備員やがれき撤去のアルバイトで生計を支えることだけだった。そんななか、全国各地からやって来たボランティアたちとの出会いが、新たな道を見出すきっかけとなる。
  これまで、漁師の仕事を見たこともない人たちがワカメの養殖作業を手伝いながら、新鮮なワカメの味に感動したり、『金比羅丸』で沖に出る体験に喜ぶ姿を目の当たりにして、改めて歌津の海の素晴らしさや漁師の仕事の意義に高橋さんは気づいた。そして、養殖業を再開させるのと同時に、『金比羅丸』をフル活用して、訪れた方に郷土の海親しんでもらえる体験学習プログラムを作った。”誰でも気軽に楽しめる”をモットーに船釣りができる『手ぶらでフィッシング!』を企画。たくさんの参加者がカレイやアイナメを釣り上げ、満面の笑顔で喜ぶ姿に高橋さんは感動した。「自分たちの海で、多くの人に心から楽しんでもらうことができるのだ。漁業体験のメニューを充実させたい。」
  高橋さんは、あたたかくなる5月頃から『手ぶらでフィッシング!』を再開させる予定だ。「ボランティアの方々をはじめ、多くの支えがあってこそ、ぼくたちが復興に向かうことができているということを広く知ってもらいたいですし、何より、南三陸の海がいかに素晴らしいかを体験してもらいたいです。」はにかみながらも、高橋さんの視線は未来をしっかりと見据えていた。

金比羅宮祭神の石碑

▲金比羅宮祭神の石碑

南三陸とサポーターの絆をインターネットで育む

伊藤 孝治さん

南三陸deお買い物 店長

伊藤孝浩さん

  『南三陸deお買い物』は、南三陸町の今を伝えるインターネット・ショッピング・サイトだ。町の人たちの顔が見える親しみやすいサイトである。このサイトを運営しているのが伊藤孝治さんだ。『被災地でがんばるお店と復興を願うサポーターの絆を育みたい』とバナーに掲げる願いは、南三陸町みんなの気持ちでもある。
  このインターネットショップには、北海道から沖縄まで日本中の人たちが買い物に来る。注文と一緒に届くメッセージは、出店者はを励ます。伊藤さんは、サイトでの販売だけでなく、イベントや企業との連携で、南三陸の商品の販路を作り出してもいる。
  震災の時は中国の青島にいた。『世界から飢えと貧困をなくす』という社是にひかれて勤めた外食チェーンの青島の工場で、駐在員として働いていた。ふるさとの被災状況を知り、仕事の傍ら、インターネットの安否確認情報まとめや南三陸支援情報ポータルサイトの運営に携わった。南三陸に帰ったのは、4月になってからのことだった。ふるさとがなくなったと思った。
  「戻ろう。」伊藤さんは決心した。2012年5月に退社し、東京のパートナーと準備を進め、6月に南三陸町で活動を始めた。地道に家族経営でがんばっている漁師やお店を応援したいと思っている。また、四季折々の季節感あふれる商品ラインナップを揃えようと活動している。
  インターネットを通して知り合った人が、実際にはるばる伊藤さんを訪ねてきてくれたことがある。うれしかった。「サイト運営を通して、南三陸のいろいろな方に出会えるし、全国各地の方々とも知り合える。毎日がとても楽しいんです。」と伊藤さんは語ってくれた。
  高校から離れていた南三陸に、海外での仕事を投げ打って、彼は帰ってきた。「震災がなかったら、帰って来なかったと思います。」
  美しい海を見ながら暮らせる町、自然の恵みあふれる南三陸を取り戻したい。伊藤さんの夢は、海が臨める場所にカフェを開くことだ。そのカフェの一隅から、伊藤さんはきっと南三陸と多くの人々とをつなげてくれるだろう。

▲南三陸deお買い物
http://www.odette-shop.com

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東北三陸復興応援団は、応援団と現地の方が力を合わせて
復興を目指せる架け橋になることを目指しています。