未来に生きる

太平洋を越えて結ばれた友情

南三陸町に贈られたモアイ像

チリ・イースター島から
本物のモアイ像が
この春、南三陸町に贈られた。
イースター島の歴史の中で
モアイ像を島外に出すことは
初めてのことだという。
「モアイ」には「未来に生きる」
という意味があると言われている。
地震と津波という大自然の脅威を知る
二つの場所は
互いを思い合う誠意と友情こそが
「未来に生きる」大きな力となることを
改めて確かめ合った。

  約17,000キロメートルの距離を越えて、南三陸町とチリは、友好関係を深めてきた。そのきっかけは1960年5月24日未明に、遠い遠い海の向こうから押し寄せて来たチリ地震津波だった。
  旧志津川町内だけで、41名が犠牲となり、312戸の家屋が流失、倒壊653戸、半壊364戸、浸水566戸の壊滅的な被害を受けた。この津波の記憶を未来に伝えようと、30年後の1990年に国鳥コンドルの碑がチリから贈られ、1991年には南三陸がふるさと創生事業の一環としてチリ人彫刻家に依頼して創ったイースター島のモアイが、志津川地区の松原公園に設置された。
  東日本大震災で公園は被災したが、流出したモアイ像の頭部は発見され、志津川高校の敷地内に移設された。日智経済委員会チリ国内委員会が、新たなモアイ。像を贈ろうと、イースター島の長老会に協力を求めた。
  93歳の老彫刻家マヌエル・トゥキ氏は、皆に呼びかけた。「海に破壊された日本の町に、人々が再びそこで生きていきたいと思えるようなマナ(霊力)を与えるモアイを、贈れないのか?私は息子とともに、日本の人たちが必要としているモアイを彫る!」長老会は大きな拍手で包まれたという。
  イースター島の石を使い彫られたモアイ像が、島外 に出たことはない。しかし、かつて倒れてバラバラになっていたモアイ像を、日本人がもとの姿に建て直す支援をしたことがあったことから、イースター島初のプロジェクトが始まった。
  こうして息子のベネディクト・トゥキ氏は、石材を切り出して、親戚の彫刻家たちとともにモアイを制作した。南三陸町を訪れたトゥキ氏は、設置されたモアイに白珊瑚と黒曜石で作られた眼を入れた。眼が入ったモアイは、世界に2体しかないという。
  南三陸町を訪れ、津波の惨禍を目の当たりにしたトゥキ氏の目に涙があふれた。「眼を入れるとマナ(霊力)がモアイに宿る。南三陸の悲しみを取り払い復興を見守る存在になることを願っている。」と彼は語った。
  チリも南三陸町も、豊かな海から糧を得、その恩恵に感謝している。そして、長い歴史の中で、いとも簡単に人間の命や暮らしを奪う海の恐ろしさを熟知している。地震を感じなくても、津波は地球の反対側から襲ってくることがある。双方の地は長い時間の中で大自然の災禍を体験し、人間がどう自然と共生すべきかを学んできた。そして、どんな困難にぶつかったとしても、勇気を持って立ち向かう心意気を勝ちとってきた。
  「モアイ」は、イースター島のラヌバイ語で「未来に生きる」という意味だ。門外不出の大切なものを贈ってくれたチリ共和国とイースター島の人たち、そして、高さ3メートル重さ2トンの巨大な像を、はるかな島から運び設置するために力を尽くしてくれた企業や多くの人たちの気持ちが、南三陸のモアイには込められている。未来に生きる南三陸町の人々を、遠い未来まで勇気づけ、見守り続けることだろう。

帰って来た浮き球は夫からのメッセージ

三浦 さき子さん

漁家レストラン慶明丸

三浦 さき子さん

  三浦さき子さんは、震災前、生まれ育った戸倉地区波伝谷で農漁家レストラン慶明丸を営んでいた。夫を亡くしてから、自分の仕事を持ちたいと思っていたさき子さんは、知人のすすめがきっかけで農漁家レストランを始めた。
  父親はいつも「波伝谷にいれば、食べっぱぐれがない」と言っていた。海と山が近くそれぞれから豊かな食材が収穫できる。ここでなければ食べられないような、素材そのものの旬を食べることができるレストランにしたいと考えていたさき子さんに、知人がタイミングよく厨房機器を提供してくれ、経験者が開店準備を支援してくれた。たった1カ月で海のすぐそばにあった作業倉庫が、レストランに生まれ変わった。
  夫の名前「慶吾」の1文字をとった三浦家の漁船の名前を、そのまま新しいレストランの名前にした。「慶」「明」「丸」の文字を書いた三つの浮き球を看板代わりに飾った。
  しかし、東日本大震災の大津波で、思い出がつまったこの店も、夫とがんばって建てた家も跡形もなく流された。3月11日の夕刻、目にしたのは、何も残っていないふるさとの変わり果てた光景だった。闇のとばりが下り、津波が押し寄せる不気味な音だけが響いた。志津川湾の向こうの気仙沼の方向が明々と見えた。これが現実だと認めることはできなかった。
  震災から1年が過ぎた時、アラスカに漂流物が流れ着いたというニュースを見た友人が、発見者夫婦の足下に、レストランの入口に飾っていた浮き球が映っていると連絡してくれた。夫の名の1文字「慶」の字が、はるかアラスカの地から、さき子さんに呼びかけていた。6月に航空貨物会社の協力で、その浮き球は彼女のもとに戻って来た。
  さき子さんは農漁家レストラン「慶明丸」を再建しようと決心した。地域の人たちが、訪ねて来た子どもたちや孫とゆっくり過ごせる場所、何もかもなくしてしまった自分たちのために通ってくれたボランティアさんたちがふるさとのように気兼ねなく集まってくれる場所を作りたい。2013年4月17日、戸倉の海を臨む自宅跡地に広々とした予約制レストランを再開した。地のものをふんだんに使った手料理を楽しめるだけでなく、コーヒーを飲みながらさき子さんの震災体験の語りを聞くこともできる。
  さき子さんたちは波伝谷の高台に16本の桜を植えた。犠牲になった集落の16人を思い、その愛しさを一本一本に込めた。春には美しい花を咲かせ、夏には涼しい木陰を作ってくれるだろう。16本の桜は、さんさんと輝く太陽の下で、復旧作業が続く戸倉の大地と、さき子さんたちの未来へ続く道のりを今日も見守っている。

アラスカから帰って来た浮き球

▲アラスカから帰って来た浮き球

■農漁家レストラン慶明丸
完全予約制 Reservations required
南三陸町戸倉字波伝谷 57
TEL 0226-46-9374

海の見えるカフェにあふれる笑顔

千葉 馨さん 嘉苗さん

馬場中山カオル商店店長 カフェ かなっぺ

千葉 馨さん   嘉苗さん 

  震災がなければこの二人は出会っていなかった。千葉馨さんと嘉苗さんは、この春結婚し、トレーラーハウスのカフェかなっぺを歌津・馬場中山地区にオープンするする予定だ。横浜でイタリアンレストランをやっていたことのある嘉苗さんが、調理を担当する。嘉苗さんが作る料理を、地元の人は『お菓子ごはん』と呼ぶ。新鮮で最高の食材がとれる南三陸では、素材そのままを食べることが多い。「でも、ウニクリームパスタも食べられたらすてきだと思うんです。歌津の食材で作ったお菓子ごはんを、地元の人たちにも楽しんでほしい。」南三陸にこれまでなかった場所を創り出そうと、千葉夫妻は夢をふくらませている。
  馬場中山地区は被災後、大津波による瓦礫ですべての道が寸断され、地域の人々はみんなで力を合わせて、窮地をしのいだ。馨さんはいち早くブログを立ち上げて地区の情報を発信した。その情報が、全国や世界からの支援物資やボランティアを集めた。その時始めた情報発信は、一日も休まず続けている。南三陸の再生のためには、世界中の人たちを地域に呼び込み続け、つながり続けることが大切だと二人は考えている。
  嘉苗さんは被災地で飼い主がいくなってやせ細っている動物を見て、いても立ってもいられなくなり、4月、会社の有給休暇をとり、乗用車に動物のエサを積めるだけ積んで福島に向かった。あっという間にエサはなくなり、気づけば道に迷っていた。通りかかった自衛隊に護衛されるようにして石巻、そして南三陸へと北上した。偶然にたどり着いた南三陸町で、嘉苗さんは、500人が避難していた名足保育園での食事作りを2週間手伝う。月1回の歌津通いがこうして始まった。
  「方言がわからなくて大変で、通訳が必要でした。」通訳してくれたひとりが馨さんだった。
  今年4月の結婚式では、震災後馬場中山の人たちが山の上に切り拓いた避難路「未来道」がバージンロードになった。地域の方が山から切り出した竹でアーチが作られ、漁師が使うパレットが祭壇になった。そこに集まったみんなが最高の笑顔だった。こういう笑顔のある場所に人は集まると、二人は言う。嘉苗さん自身がすでにそれを実証している。海外のリゾート地に引けを取らない美しい海を見ながら、おいしいコーヒーでほっと一息つく場所、カフェかなっぺ。地域の人たちも都会や海外からのお客さんも、みんなが笑顔になるカフェを作る二人の二人三脚が始まる。

■カフェ かなっぺ
南三陸町歌津字中山2-1
TEL 090-1069-4870
e-mail: cafe-canape@shibakaoru.jp
http://www.chibakaoru.jp/

真っ赤なトマトが結ぶ縁

小野政道さん

小野花匠園 代表取締役

小野 政道さん

  南三陸町歌津で新しい農業が始まっている。トマトや菊花の栽培を営む小野政道さんは、弱冠33歳の若い社長だ。株式会社小野花匠園を設立して、農業法人として社員を雇い営農している。化学肥料を使わずに半年かけて作る自家製の有機質肥料を混ぜて土を作り、品質の高い、おいしくて安全なトマトを消費者に届けようとがんばっている。小野さんは消費者に開かれた農業を実践している。遠方からやって来るツーリストを受け入れ、ハウスで農業体験をしてもらいながら交流する取り組みを続けているのだ。
  トマトの青い香りが充満するハウスに入っただけで、元気になれる気がする。時期によって作業内容は変わるが、支柱立てやわき芽摘み、収穫などを体験できる。作業に加わった参加者にとって、そのトマトはとても愛しく感じられる。強風や寒波のニュースを聞くと、はるかな南三陸を思う。小野さんたちスタッフの顔も浮かぶ。真っ赤なトマトを収穫するときには、ハウスの中に歓声が沸き立つ。
  小野さんは、こうして南三陸ファンが生まれていくと考えている。
  広さ450㎡のハウスには300株のトマトが育てられている。作付けしている主な品種は「桃太郎はるか」だが、息子さんの名前も「はる」ということで、「はるちゃんトマト」と名付け、大切に箱詰めして日本全国の方に発送している。パッケージのかわいらしさにも思わずうれしくなる。箱の中に入ったカードには『めんこたまこに育てました』と書いてある。「大切に手をかけて育てた」という地元の言葉である。ひとつひとつのトマトが手塩にかけて育てた赤ちゃんのように見えて来る。また、手元に届いたときにベストな食べ頃になるように、お客様それぞれの要望に応えて、熟し方を見計らい箱詰めする。実に細やかな愛情のこもった仕事が、「はるちゃんトマト」にはぎっしりつまっている。
  このほかにも小野さんは、「プチぷよ」という品種のミニトマトも栽培している。「トマトをおやつ感覚で食べられるようにパッケージを工夫したいんですよね。」小野さんは地元のコンビニエンスストアでも、自分のトマトを売ってもらえるように交渉し、トマトに対する消費者の既成概念を打ち破ろうとしている。
  新しい農業が育む小野花匠園のトマトは、遠方の消費者との縁をつなぎ続け、南三陸町に人々を呼び込み続けている。

■株式会社小野花匠園
南三陸町歌津字中在 66
TEL/FAX 0226-36-3711
http://onokashouen.com/

美しい長須賀海水浴場を取り戻せ!

千葉 秀さん 三浦 洋弥さん

三陸シーモンキーリーダー

千葉 秀さん 三浦 洋弥さん

  夏が来る度、歌津地区の長須賀海水浴場は、たくさんの海水浴客でにぎわった。釣り客や海水浴客で民宿がにぎわい、漁師たちが水揚げした海の幸が宿泊客を感動させリピーターにするという経済循環が成立していた。浜の人たちにとって、自分たちの海が人々を喜ばせていることが、何よりうれしく誇らしいのである。
  しかし、延々と続いていた美しい砂浜は、津波と地盤沈下によって小さくなり、砂浜からはいまだに石ころや小さな鉄屑が出てくる。この海岸を復活させようと若者たちが立ち上がった。「南三陸シーモンキー」の小学校1年生から高校3年生までの約50人である。毎週土曜日の午後2時から1時間半ほど、長須賀海岸を清掃する活動を続けている。この日は、地元の漁師が使うプラスティックの大きな籠にスコップで砂を入れてふるい、細かい異物を取り除く作業をしていた。炎天下、役場の応援職員や地元住民、ボランティアなどおとなたちとの懸命の作業が続く。
  リーダーの三浦洋弥くんと千葉秀くんは高校1年生。二人とも小さいときからこの海で泳いできた。地域の人にとっても、子どものときから遊んで来た思い出がいっぱいつまった砂浜だ。ここで遊んだ楽しさを思い出してほし、い。町のみんなのためにも、遠くからこの町に来てくれる人たちのためにも、長須賀を復活させたい。二人は友達に呼びかけた。
  三浦くんの父親は漁師だ。津波で流されたワカメを父親たちが一から作り直す姿を見てきた。千葉くんは震災直後に避難していた避難所で、おとなたちとともに支援物資を運んだり、薪割りをしたり、体を動かしてみんなのために働く充実感を体験した。震災後は、遠くから町を訪れたボランティアや、話したこともなかった町のおとなたち、そして自分たちより年下の子どもたちなどと、世代を超えて話すようになった。砂浜を清掃しながら、いろいろな生き方や考え方に出会い、多くを学ぶことができると、二人は目を輝かせた。「ひとりの力は小さいけれど、みんなならその力は大きい。」力強く千葉くんは言う。
  活動を支援している一般社団法震災復興支縁協会つながり代表理事の勝又三成さんも、子どもの頃、長須賀海水浴場に遊びに来ていた。海水浴場が復活するまでにはまだまだ時間はかかるが、地元の人たちが遊べるビーチを取り戻したいという子どもたちの夢をかなえるために、活動を進めている。
  地元の人たちが笑顔で集える日を実現しようと、若者たちは汗を流していた。

■一般社団法人震災復興支援協会つながり
南三陸町歌津大沼 218-85
e-mail tsunagari.pc@gmail.com
FAX 0226-36-3907

“農家の思いを食する”そんな交流もある

阿部 博之さん

農家

阿部 博之さん

  リアス式海岸特有の山が海に迫る地形の南三陸は、里海の町だ。里山の地域、入谷地区では、古くから斜面の多い狭隘な場所で地道に農業が営まれて来た。阿部博之さんは、りんごなどの果樹栽培と米作りと畜産を行う専業農家だ。
  毎春、阿部さんの畑では、りんごや桃、梨などの果樹が一斉に花をつける。日本の原風景ともいえる、里山ならではの美しくのどかな景観が、入谷にはある。決して大農園は営めないが、農家がそれぞれの農地をそれぞれの適性に合わせて、特徴のあるいい作物を作り、その点と点が結びつけば、入谷地区のような中山間地での農業の強みが出せると阿部さんは考えている。
   阿部さんは、今、企業支援を受けて、トウキという作物栽培を始めた。トウキは身体が温まり、貧血を改善すると言われている作物で、根だけでなく葉にも同じ効能があることが知られている。このような希少価値の高い作物を作ることが、地域の将来を開くと阿部さんは考え、栽培のむずかしさから最近育てられなくなったササニシキの契約栽培も手がけている。
   阿部さんは地域の子どもたちにりんごが実るまでを見せてきた。。給食に阿部さんのりんごが出ると、子どもたちは「阿部さんのりんごだ!」と大喜びでほおばってくれる。
「農業は食べ物を作り、それが人の身体を作る。その作物には作り手の思いが込められている。食べる人が『人の思い』を食すること、その思いを理解して食べることが大切だと思う。」阿部さんの農業哲学である。
  グリーンツーリズムに昔から関わってきた阿部さん宅には、全国からさまざまな人が泊まりに来る。中学3年の春にりんご畑の作業を手伝ってくれた子は、夏休みの度にやって来て、結婚式にも呼んでくれた。
  自分たちの考えに共感してくれれば、人と人とがつながる。阿部さんの農地では、作物だけでなく、人と人との絆が豊かに育まれているのだ。このひとつひとつの縁を花開かせ、実らせていく地道な毎日が、南三陸町の未来を創り出すことを、阿部さんは身をもって知っている。
  桃源郷のような入谷は、多様な付加価値作物で、南三陸に新たな価値を生み出す可能性を秘めている。「南三陸に学べ」と言われるような里山にしたい。豊かな海と山がつながった地の利が生きる町にしたい。阿部さんの頭の中では、あんころ柿(干し柿)やら、地元の食材を生かしたレストランやら、新しいアイディアが渦巻いている。

まずもって かだっから きいて けさいん

田畑 祐梨さん

「まずもって」代表

「まずもって」の方々

  2年経っても、被災したふるさとの景色は変わらなかった。どうして?という疑問が胸をよぎったが、ふと振り返ると自分は何もしてこなかったのではないかと気づいた。田畑祐梨さんは高校3年生。私たちだから?こそできることはないのか、田畑さんは考えた。
  被災後、南三陸町には外国人も含めていろいろな人がやって来るようになり、震災前には考えられなかった出会いが生まれた。田畑さん自身も、兵庫などの遠いところに友達ができた。そういう人たちに、震災で体験したことを語ることならすぐにできる。友達に声をかけると5人の仲間が集まった。グループの呼び名は、「まずもって、かだっから(語るから)きいてけさい(聞いてください)」を省略した「まずもって」。今では16人のメンバーが活動している。
  震災のときの体験、避難生活で感じたことなどを、南三陸を教育旅行で訪れる高校生たちやボランティアさんたちに話したり、社会貢献団体の招きにより東京で話す機会を得た。手応えを感じた。話し終わると、聞いていた高校生が「毎日の大切さがわかった」と涙を流していた。同じ年代が経験した現実は、より身近に感じられるし、もし英語で直接伝えられたら英語圏の方々の感じ方も違ってくるのではないかと、田畑さんは考えている。
  この2年間の経験を通して、田畑さんは自分自身も将来、社会に貢献できるような仕事をしたいと考えるようになった。
「自分の夢はふくらんだ。このやる気をだれかのやる気に変換したい。」と田畑さんはきっぱりと語った。南三陸町で行われている植樹やマウンテンバイク大会の運営などのボランティアにも積極的に参加して、町の復興の一役を担いたいと意欲的だ。
  一緒に活動している高校1年生の佐藤美南さんは、被災後、一時岩手に移った時、志津川に戻りたいと心から思った。早く外に出たいと思っていた自分が、そう思うとは想像だにしていなかった。離れてみて初めて、ふるさとはひとつしかないことを知った。だからこそ、同世代の若者たちにもふるさとを大切にしてほしいと心から思う。
  メンバーみんなが共通して伝えたいことは、当たり前に生活することの有り難さとあやうさだ。水が出ること、電気が使えること、おなかいっぱい食電気が使えること、おなかいっぱい食べられること。そんな当たり前が、あの日一瞬で失われた。「当たり前」が決して「当たり前」ではないことを、彼らは知った。「ありがとう」という一言の重さを身をもって知る南三陸の若者ならではの「語り」を、きっと彼らは地道に続けて行くだろう。

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東北三陸復興応援団は、応援団と現地の方が力を合わせて
復興を目指せる架け橋になることを目指しています。